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お金=信用ではなくなる未来(資産残高という数字に一喜一憂しないために)

  • 6月15日
  • 読了時間: 6分

瀬戸内海の島で漁師をしている、さかえるです。

今日は「お金=信用ではなくなる未来」について書いてみます。


お金とは信用であった今まで


「お金とは信用である」。誰しも、一度は聞いたことがあると思います。


1万円を出せば、1万円分のものが手に入る。あの紙切れ1枚で商品やサービスと交換してもらえるのは、みんながそれを「1万円」だと信用しているから、です(これを貨幣の一般受容性(または信認)というとのこと。)。


ところが今、その仕組みが機能しなくなりつつあると感じる出来事がありました。


その最前線というか、実際に肌で感じていることを書き記しておきたいと思ったことがこの投稿を書くきっかけになっています。


お金を持っていても買えない、を初めて味わった


きっかけは「ナフサショック」でした。


ナフサというのは石油からとれる原料で、インクやプラスチックのもとになるものです。中東情勢の影響でこれが手に入りにくくなって、何が起きたか。


ひじきを梱包するプラスチックの袋が、一時、どこを探しても見つからなくなりました。


いつも仕入れていたところからも消え、事業者向けのネット通販からも、商品ごとなくなってしまった。お金は持っているのに、買えない...。


正直なところ、ちょっとパニックになりました。


このままだとひじきを継続してお届けできなくなる、と。


そういったプラスチック材料のみならず、わしの周りでは、似たようなことが起きています。


例えば、工事を頼んでも1年待ちがざらであるということ。工事の材料が入ってこないのもありますが、そもそも職人さんの手が空かない。


しかも1年経つと資材の値段はさらに上がっているので、今の1万円が、1年後には1万円分の働きをしてくれない。そういう世の中に、本当になりつつあります。


株が倍になった、その裏側で


ちょうどこの記事を書いている日(2026年6月15日)。日経平均株価は7万円に迫りました。1年ちょっとでほぼ倍。株を持っていれば、お金の価値が勝手に倍になったような世界です。


「やっぱり資産運用をやらなきゃ」という空気は、どんどん強くなっています。もちろん運用そのものは(銀行にただ預けておくよりはという意味で)わしもしておくべきかとは思っていますが。


でも、ここでちょっと待って、と。一回立ち止まって考えてみたいですよね。


手持ちのお金を、まるごと金融資産に置いておいて、それで本当にいいんだっけ...と。


欲しいもの、受けたいサービス、行きたい場所。


「お金を払えば手に入る」という前提が、もう当たり前ではなくなってきている。この株高は、実はそのことを裏側から教えてくれているんじゃないか、と思っています。


お金より「行動の履歴」がものを言う



今、わしの目の前に釣り針があります。幸いいまはまだ手元にたくさんあり、入手先にも困ることは少ないですが


漁具類のうち一部はつくっていたメーカーが生産を縮小したり手に入りにくくなってきたものがチラホラあります。


さっきのプラスチック袋の話に戻ると、結論からいえば、わしはちゃんと手に入れることができました。


なぜか。何度も買って、一定の周期できちんと取引を続けてきた、その積み重ねがあったから...です。


過去のやりとり、現場での行動の履歴があったからこそ、(数は限定的ですが生産をストップしないだけの数を)何とか辛うじて確保していただけました。逆に、そういう取引の履歴がまったくないところは、今、本当に手に入らない様相でした。


つまり、お金そのものよりも「行動の履歴」のほうが、ものやサービスを手に入れるうえで効いてくる。そういう時代に入ってきている、と。


「お金さえ出せば買える」が、当たり前でなくなってきた


通貨が便利だったのは、「誰がどんな人間だろうと、その紙幣さえ持っていれば、同じだけの価値のものと交換してもらえる」からだと思います。


素性も、それまでの取引の履歴も関係ない。お金さえあればいい。この相手を問わない性質——お金の匿名性であり、誰もが受け取ってくれるという一般受容性——こそが、通貨の強みでした。


念のため補足すると、円が法定通貨であること自体は、今も何も変わっていません。法律上、支払いとして受け取りを拒めないという効力(強制通用力)はそのままです。


揺らいできたのは、「お金さえ出せば、欲しいモノが必ず手に入る」という、実際の購買力の方かなと。


たとえば、この50本入りの釣り針には4,500円と書いてあります。今までは、誰だって4,500円さえ出せば手に入りました。


ところが、モノの供給が需要に対して細っていくと、もう「値段の問題じゃない」という局面に入ってきます。売る側に「必ず売らなければならない義務」はないので、


もし(供給の)数が限られれば、ずっと釣りを頑張ってきた、何度も気持ちよく取引してきた——そういう相手から優先して回していく。お金は必要だけれど、それだけでは足りない。そんな未来も、そう遠くないのかもしれません。


そういったことが、その兆しが、ここ数ヶ月あちこちで表面化してきたように感じています。


投資で100万円が1年後に200万円に、という話は、もう珍しくなくなりました。資産の「数字」だけなら、勝手に膨らんでいく世の中です。


でも、その200万円を出せば、1年前に100万円で買えていたモノが必ず手に入るのか。物価も上がり続けていて、モノによっては数割から倍近く値上がりしているものもある。


しかも、いざ品薄になれば、お金の多寡だけでは回ってこない。そういう局面に入りつつあるのかな、と思っています。


「お金の使いかた」と「やってきたこと」に価値が出る


わし自身は、ものやサービスを作る側、つまり供給サイドの人間です。その立場で、前からずっと一貫して決めている行動基準があります。「支払いはきちんとする(短期的な値切りをしない)」。そして「経費を絞りすぎない」。この2つ、です。


自分の支出は、誰かの売上。そして誰かの売上は、巡り巡って自分の支出になる。この循環を忘れずに、行動の履歴をコツコツ積み重ねていくこと。それが何より大事だなと、最近はとくに強く感じています。


働き手が減っていく世の中では、需要よりも先に、供給のほうが細っていきます。


わしが暮らしているこの島は、若手が減って、その「供給が先に細る」現実を、どこよりも早く先取りしている場所です。


そういう中で生き残ってきた島の先輩たちは、もともとこの感性を持っていた。だからこそわしも、その価値観をインストールさせてもらえたんだと思います。


おわりに


「金融資産の数字を増やせばいい」。その発想から、半歩でいいので踏み出してみませんか。


個人としての信用。日々の行動の積み重ね。やってきたことの蓄積。そこに、目には見えない価値をどれだけ乗せていけるか。お金を、どう「使って」いくか。これから先の人生の豊かさは、案外そこにかかっているんじゃないかなと、思っています。


資産残高という数字に、一喜一憂しすぎないために。

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